常省祭

常省祭

41歳で亡くなった藤樹先生には、長男虎之助7歳、次男鍋之助3歳、三男彌三郎(常省)生後50日の三人の遺児がありました。臨終にあたって先生は年若い後妻の布理を慮り、老母と遺児の行く末を弟子たちに頼みました。先妻久子との間の子の長男と次男は小川村の村人が預かり、布理は生後間もない彌三郎を熊沢蕃山の妹美津が嫁いでいた東万木(現在の青柳)の岡田八右衛門に託して、再婚しました。

藤樹の門人で岡山藩主池田光政に仕えていた熊沢蕃山は、光政に遺児たちの召し出しを願い出て、それが認められ遺児は順に岡山に行き、近習として仕えました。しかし、二人の兄たちが二十歳を過ぎると相次いで死去したため、彌三郎が中江家の家督を継ぐことになりました。やがて彌三郎は岡山藩校の副学校奉行である学校監になりましたが、幕府の心学忌避(林羅山を中心とした朱子学が国学となり、藤樹の考え方はそれに沿わなかった)により蕃山と光政との間がうまくいかなったこともあり、小川村に帰りました。31歳の時でした。  

書院は藤樹先生の死後大溝藩により、すでに解散を命じられていました。内心の完結とその実現を求める心学は幕藩体制のもとでは容認されなかったものと推測されます。書院は彌三郎に引き継がれますが、後に京都に移住しています。書院解散から30年たっても再開が許されない空気があったのかもしれません。彌三郎はこのときから常省と名乗ります。  

その後、常省は藤樹が取り掛かり未完のままになっていた大学中庸の注解書制作の意思を継いで完成し「学庸狗尾」と名付けました。それを読んだ対馬藩主が、それを評価し常省を対馬藩に客分として迎え、藩の教育に関わりました。対馬藩を辞して京都に戻り、父藤樹先生と同じ喘息に苦しみながら、学塾を開いて門人を教えていました。

小川村に帰るのは宝永6年(1709)6月23日(旧暦)、62歳で生涯を終える約1か月前でした。藤樹先生の教えを受け継ぎ、それを広めた生涯でした。墓地は上小川の寶樹山玉林寺の山門前で、父と祖母が並ぶ墓の右手前に西に向いて常省の墓碑があります。

常省祭は藤樹書院の年中行事として7月23日に儒式で執り行われ、幕府の心学忌避の中で父、藤樹先生の学問を受け継いだ常省の生涯を偲ぶとともに、孝経拝誦、藤樹先生の遺品、書籍等の文化財展示説明などを行ってきています。


式典の様子

今年度の式の様子(新型コロナウイルス感染症感染予防のため、今年度も当財団法人の理事等で行いました。)

当日の常省先生の墓所の様子
上小川婦人会の皆さんに草刈りをしていただきました。

初献  代表理事 渕田 豊朗
亜献  理  事 上田藤市郎
終献  理  事 藤野 雲平

次に全員が焼香をしました。

孝経を拝誦しました。
先導  理  事 志村 観了

孝経、拝誦の様子