中江藤樹
日本陽明学の始祖とされ、江戸時代初期の儒学者です。陽明学は、中国明代に[王陽明を号した](1472~1528年)が唱えた「心」がすべてのもととする考え方です。37歳の時、陽明学に触れ、それこそが自分が探し求めてきた考え方生き方であるとし、それを日本の歴史風土や当時の政治体制に合わせて解釈し人々に紹介しました。その際、全ての人にわかりやすく伝えるために、多くの工夫をしています。例えば、「致良知」や「五事を正す」というのがそれです。
日本陽明学の始祖とされ、江戸時代初期の儒学者です。陽明学は、中国明代に[王陽明を号した](1472~1528年)が唱えた「心」がすべてのもととする考え方です。37歳の時、陽明学に触れ、それこそが自分が探し求めてきた考え方生き方であるとし、それを日本の歴史風土や当時の政治体制に合わせて解釈し人々に紹介しました。その際、全ての人にわかりやすく伝えるために、多くの工夫をしています。例えば、「致良知」や「五事を正す」というのがそれです。
藤樹は、1608年、藤樹書院(滋賀県高島市安曇川町上小川)の敷地で中江家の長男として生まれました。9歳の時に米子藩士の祖父の養子になり米子(鳥取県)に、そして、国替えによって大洲(愛媛県)に移りました。27歳の時、母の看病のために、藩士をやめて帰郷し、32歳のときに学舎(現在の書院建物の北側)を建て、門人たちの学び場とし、その心得を「藤樹規」として掲げました。30歳で、久子と結婚し2人の息子をもうけましたが、藤樹39歳の時に妻が亡くなり、後妻との間に息子(のちの中江常省)が生まれました。三男誕生の50日後、41歳で持病の喘息のために亡くなりました。
陽明学では「良知」は誰もが生まれながらに持っている「愛敬」の心であり、るとは「良知」を常に意識して、言動に現れるようにすることということです。人が人らしく生きられるのは「良知」を働きによるものなので、つねにそれが十分に働くようにしておかなければならないという教えです。
「致良知」のためには、私欲やこだわりを除く「誠意」が大切で常にそれを意識することが必要であるということです。藤樹は、様々な出来事は、人のの五つによるものであり、いろいろな人との出会いの中で「和やかな顔、思いやりのある言葉、相手をやさしく見る、本当の気持ちを聴き、思いやる」こと、つまり、五事を正すことが大切であるとしています。